ラッキーオールドサン『ラッキーオールドサン』(2015)

 戦後、高度経済成長期における東京の人口爆発と住宅難を解消すべく、近郊に開発されていった巨大団地と90年代以降の記号・表象による差異化論理が貫徹した均質で憂鬱な郊外。そこにあったのは居住の偶有性による不安と地域共同体・集合的記憶の不在であり、郊外は字義通り都市の付属物(sub-urban!)とされてきた。はたして、郊外はいまも人々が「住まわされる」入れ物のような場所であり続けているのだろうか。

 本作が示すのはそのような郊外の姿では決してない。音楽からいえば、本作から流れるのは、穏やかかついい意味で色気のないアコースティックギターの音色と抑揚を抑えた二人のボーカルだ。それらに懐かしく響くバンジョーやバイオリン、トランペット、口笛が重なり合い極めて良質なポップスが完成する。さらに、ハイ・ファイ・セットやユーミンへの意識を本人たちが語るように、牧野ヨシらを迎えた本作はポップスを集合知のもとで完成させていこうという70年代的な模索の現在形でもある。しかし、郊外という位相において、それらへの回収をラッキーオールドサンは拒む。70年代ポップスが示した郊外はユーミンの「中央フリーウェイ」に象徴的に描かれるような、人々の姿が捨象された単なる風景としての郊外だった。対し、ラッキーオールドサンが描くのは、本作のコンセプトともなった聖蹟桜ケ丘の街で繰り広げられる確かな郊外の人々の営みだ。

 「あっという間に日は過ぎ」て「季節は巡り 坂の多い町に住んで退屈している」(「坂の多い町と退屈」)私。「この街とお別れする時が来る」(「街」)と考えながらも、「変わらずある街の匂いに誘われ まだ移れない」(「いつも何度でも」)私。開発から時を経た「オールド・タウン」としての郊外に住む人々が織りなす日常の記憶の集積として本作はある。

 銀杏BOYZの影響を二人が常に語ることにも合点がいく。流れる音は正反対だ。しかし、両者の音楽にはいつも街のいつもののぼくらがいる。自分がいる場所こそが世界と信じた幼少期。リビドーと葛藤が混在した青春。何気なく、しかしそれぞれの人々にとって時に大切に、時に退屈に編まれていく時と場。本作が描ききったのは、それらを土台とした自らの人生における必然/中心としての郊外、均質でも単なる風景でもないぼくらが「住む」、リアルな郊外だ。そして、いつものぼくらといつもの街を繋ぐ本作こそが2015年東京の「フォーク」・ミュージックなのである。

ラッキオールドサン「坂の多い町と退屈」(『ラッキオールドサン』(2015)所収)

" " is a river of music that has absorbed many streams.

会社員。社会と情動とテクストに巻き込まれながら文化(特にポピュラー音楽)を書き、語り、読み、消費するということについて考えています。

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