スネオヘアー / フォーク (2004)
シンガーソングライター、スネオヘアーによる3枚目のアルバム。プロデュース、ミックスは高山徹が務める(1)。90年代USオルタナ経由の太いギター・サウンドと、ウィーザー以降ともいえるメロディーを第一義としたパワー・ポップ・サウンドが本作の主軸。同時期に海の向こうで大出世を果たしたデス・キャブ・フォー・キューティーや、モデスト・マウスといったインディー・バンドが持っていた寂寥感と僅かだけれども確かに蠢く衝動を感じさせる立体的でハードなサウンドを、孤独と将来への焦燥感を繊細に描くリリックが優しく包み込む。
同時代の国内シーンでは90年代バブルガム・パンクを引き継ぎつつ、拡大したロック・フェスに最適化した「青春パンク」やポップ・エモ、残響レコードに代表されるようなインスト、ポスト・ロックいったジャンルがインディー・バンドの「多様性」を生み出していた。その一方でメジャー・レーベルでは90年代を彩ったバンドたちの解散が続く。ブランキー・ジェット・シティ(2000年)、ナンバーガール(2002年)、ミッシェル・ガン・エレファント(2003年)、スーパーカー(2005年)と続く解散劇。その後ろでは、メジャー・レーベルが次代のメインストリームを担うロック・ミュージシャンを(時に青田買いのようなかたちで)輩出していった(その大成功例はアジアン・カンフー・ジェネレーション、ストレイテナー、チャットモンチーなどといえる)。スネオヘアーの本作のサウンドも、それら90年代オルタナティブ・ロックを受け止めながら最大公約数としてのギター・ロック・サウンドとして構築されているように聴こえる(2)。
ただし、そのようなサウンド・プロダクションが面白くない、聞くに堪えないというわけではまったくなく、むしろ今となっては神格化された感のある98年組的くくりからも、同時代的なインディー・シーンからも、メジャー・マーケットからも、批評的な評価からも零れ落ちながら(3)、それらの作品群に比肩するグッド・バンド・ミュージックが音盤の中で常に鳴り続けているというロマンチシズムに私は強く惹かれている(4)。スネオヘアーは本作を含めエピックからアルバム6作、ミニアルバム1作、その後キング・レコードからアルバム3作、ミニアルバム2作残し、メジャー・レーベルから離脱。現在はインディーで活動を行っている。メジャー・レーベルに所属し、しっかりとしたクオリティの高い作品群を残してきたものの、大規模ヒットには恵まれず、2000年代以降のミュージシャンの生き残り施策のひとつでもあったロック・フェスでの出演機会もそう多くはなかった印象がある。
冬の曇天の下、霜柱のたった固い地面をザクザクと踏みしめながら一人歩くような物悲しさと芯の入った強さを閉じ込めながら、その才能と、作品の質に比してあまりにも言及されることの少ない名盤として、本作は今もどこかの中古CD店の棚で、サブスクリプション・サービスの海の中で、誰かの耳に届くのを静かに待っている。
(1)the collectors、CORNELIUS、くるり、フジファブリック、the pillows、スピッツなどの作品群にミックスを中心として関わってきたレコーディング・エンジニア。仕事の詳細は公式HPに詳しい(すごくきちんとしている)。
(2) 本作の帯文「ストレートなメロディと、まっすぐな言葉。内なる自己に正面から向き合った、まぎれなき名盤!」という一文が、本作がどのような受け入れられ方を望まれて生まれ出たのかを示しているように思われる(というか、「内なる自己」というワードはダブル・ミーニングっぽい)。
(3)時にそれは運命の・時代のいたずらであり、品質の良悪には左右されない(と信じているが、時に見つかるGLAYとTHE BLUE HEARTSとOASISを悪魔練成したようなバンド・サウンドには感情を無にする迫力があるのも決して忘れてはならない)。さらには、メジャー・レーベルのただなかに合って産業化の波にもまれつつも大衆に受け入れられなかったという悲劇が、そのサウンドに「産業化への対抗」というロックのオーセンティシティを(外在的な形式で)保持させている(のかもしれない)。
(4)「90年代シティ・ポップ・記録簿」と、light melllow 部に代表されるようなオブスキュア・シティ・ポップの発掘、それと並走して柴崎祐二が提唱した「俗流アンビエント」作品群に代表される「ポスト・ミューザック」といった、2010年に年代にささやかに勃興した、(時に辛辣な)ユーモアを伴ったディグ・カルチャーに、私も大きな影響を受けている。
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